林野 茂 遺作展 

林野茂スケッチ集

林野茂

妻・支圭子とサイクリング

癌と共に描き続けた大和路
― 林野 茂氏の作品から ―

 

奈良県立医科大学客員教授
岡本 新悟

 

 平成19年9月21日の朝、私が専門外来の診察を始めようとする10分程前、消化器外科病棟に入院中の林野 茂氏の奥様が涙を隠すことなく私に寄りかかりながら「昨日1時50分に主人が亡くなりました。先生に有難うございましたと伝えてくれ、と言って亡くなりました」と。その後の声は途切れて言葉にならなかった。

 

 診察を始める時間になっても私の脳裏にこの5年間膵臓癌と戦ってこられた林野氏の姿が脳裏を去らなかった。氏にとってこの5年間は、癌の告知を受け手術を受けるも完治できず抗癌剤による治療を続けながらの毎日であった。時々襲ってくる苦痛に耐えながらも、少しも不安や愚痴を口にされることは無かった。いつも付き添ってこられる奥様に「重子、しんどいけど先生の話で安心した・・・」と診察を終わるたびに私に対して感謝の気持ちを顔一杯に表しながら帰って行かれたのが印象的であった。

 主治医である私は、氏が中学校の社会科の先生であること。また自作の吉野の名跡を散策する地図を頂いて、几帳面な方だなという印象を抱いていた。服装などにはあまり気をつかわれない方で、そこに書かれた案内があまりにも繊細で女性的な文字であったために、御本人の印象とは何か相いれないものを感じていた。主治医と患者さんという関係から見えてくる人の印象とはやはりこの程度のものなのであろう。

 

 亡くなられて3ケ月ほどして奥様とお子様の名前で一通の葉書を受け取った。「しげる展 ~ともに過ごした日々~」と書かれた個展の招待状であった。氏が絵を描いておられたことを知ったのはそのときが始めてであった。私は秘書のSさんを連れて一緒にその展覧会をおとずれた。その展示は氏の地元の喫茶店でひっそり行なわれていた。奥様と娘さんが迎えに出て来てくださり、喫茶店に展示してある油彩の風景画や静物を一点一点、氏が描いておられた頃の病状と併せて説明していただいた。そのほとんどは大和路と吉野の風景であり、癌との戦いの中で余命を意識しながら描かれた作品として非常に興味をもった。温かい色使いの何かホッとする風景画であるとい印象を受けた。

 

 奥様は、本人が決して人に見せるために描いていたのではないこと。そして個展などはさらさら考えてもいなかったために、この遺作展も本人の遺志ではなく、作品をみた同僚の先生の勧めで開かれたことを伺った。この遺作展を訪れた同僚の先生方も「林野先生が絵を画いておられたとは知らなかった」、「普段の林野先生からは想像がつかない」と言われます、とも奥様から伺った。そして壁に展示してある絵を一通り見終わってテーブルでコーヒーをご馳走になっているとき、奥様がカウンターの上に並べてあった数冊のスケッチブックを持ってこられた。なんとなく取った一冊目のスケッチブックを見ながら私の心に衝撃が走った。わたしの心は、その調和のとれた構図と柔らかい線と色合いに込められた静かな世界に引き込まれて行った。私もかつて美術をめざして芸大を受験した経験があり、その技能の巧拙はある程度評価できると思っている。その数冊のスケッチを私は食い入るように見入って、ある著名な作家の個展を見終わった時の様な感動と脱力感を覚えた。そして帰り際まで奥様から思い出話を伺ったが、それはやはり「生徒思いの一人のまじめな中学校教諭」であった。同僚の先生から、学校でみる林野先生からは想像できないと言われたのも頷けるものであった。

 

 帰り車の中で私は、氏が明日香や吉野の野山を散策しながらスケッチしておられる姿を何度も想像してみた。その姿は想像できても、私にはどうしても理解できない点があった。それは日に日に迫りくる死の恐怖をどのように心に受け止め、このような絵が画ける安らかな心の時間を過ごすことができたのかということ。そして癌の告知を受けるまではほとんど絵筆を執ることは無かった氏が、人に見てもらおうとして描いたのではないそのその製作の動悸と情熱の源はどこからなのか私には想像できなかった。そして後日、私が気に入った何冊かをお借りして自室で静かに見入った。いくら見入っても当時の氏の心境はスケッチからは計り知れないものであった。

 

 しかし医師として、これは癌に侵され死を迎えることを知りながら一日一日を精一杯暮らしている患者さんにとって、一つの励ましとなり、限りある人生を生きる一つの知恵を与えてくれるものではないかと考え、奥様の了解を得て紹介することにした。奥様は「本当に人に見せられる絵なんですか」と私の申し出に半信半疑であっが、たとえその作品が癌を背負って描かれた作者の作品であることを抜きにしても十分見応えのある絵であると評価して紹介することにした。

 

完  

 

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